母はいなかった。父もいなかった。死んだわけではない。双方、「忙しかった」だけだ。  私の父と母はどちらも研究者だった。だから私が生まれたのも、研究所に併設の病院だった。父も母も別々の部屋に住み、私も早い段階から自分の部屋を割り当てられた。設備は贅沢なものだ。空調は温度だけでなく加湿も除湿も自由自在だし、あまつさえ空気清浄機までついている。照明器具は明かりを段階的に変化させられるし、タイマー制御ももちろん可能だ。キッチンも風呂もトイレも別々に備えられているし、家具家電も一通り揃っていて、ベッドも高品質だ。プライベートを守るために防音設備もしっかりしてるし、入り口は指紋と網膜を共に認証しないと開かない仕組みだ。  だから、夜は何の音もしないし、光が一切はいらない。それが、たまらなく怖かった。  母も父もいなかった。研究に生きる人だった。部屋に行ってもいない。研究室に行く訳にはいかない。かといって知り合いがいるわけでもない。私は一人ぼっちだった。  一度、思わず母に泣きついたことがある。ある廊下で遠目に見つけて、気がついたら走り出していて、母の体に抱きついてわんわん泣いていた。その日は、母もようやくわかってくれたのか、そのまま私を部屋まで送ってくれた。  いや、違うか。研究に邪魔な私を部屋へ送り返した。  どうしても眠れない夜の話をすると、母は部屋の設備に幾つかの音楽を仕入れた。 「お母さんね、眠れないときは、よくリュートを聞くの。とっても安心する音色なの」  たしかにその音色は心地よかったし、そのときはそれで眠れた。以来私は、眠れない日はリュートを聞くようになった。そして、母を思い出すようになった。  リュートが効いたんじゃない。リュートが母を思い出させてくれるからだ。  気がつくと、私は知識の虫になっていた。  暇さえあれば、自分の端末から研究所のデータベースへアクセスし、様々な情報を読み漁った。研究所併設の学校で教えられる内容は、それに合わせてどんどん拡張された。結果的に、普通で言う義務教育終了頃には、既に大学1年生レベルの魔術と科学に関する基礎知識、それからそれらの分野について意見交換できるレベルの英語と日本語の能力を身につけていた。後から知ったが、これは研究所側の早期英才教育の賜物だったらしい。  自然、私は研究員として就職することが決まった。採用試験はフリーパスだった。  当時の私は、2つのことに熱中していた。一つは物語を読むこと。もう一つはmaterializeという技術だ。  前者は、様々な人生を追体験するため。研究所で体験できることなんてたかが知れている。魔術師としての人生、冒険者としての人生、神職としての人生、アスリートとしての人生、男としての人生、女王としての人生、そういう様々な体験をするために、私は本を読んだ。その作り物の体験で、人生を何とか豊かにしようとした。  後者は、簡単に言えば「ものを作り出す技術」だ。魔術と科学の融合した応用分野であり、頭のなかにあるものを実際に具現化する方法。私は自分で様々なものが作り出せるこの遊びに夢中になった。結果色々やらかしたりもした。反物質を作ろうとしたときは警報が鳴って、1時間以上関係職員から説教をされた。それでもmaterializeは楽しかった。金の便座を作ってみたり、オパールの入れ歯を作ってみたり、純水を作って電気が流れないか確かめてみたり。  ペットが作れないか試してみたり。  そう、授業で触れた動物の感触が、私には忘れられなかった。猫を膝に載せたときのあの安心感といったら、本当にたまらなかった。そのまま一日抱いて過ごしたいと駄々をこねたほどだ。  この頃には、心の平穏の取り戻し方を覚えた。余計なことを考えずに学問と研究に没頭すること、それでも煮詰まったときには、真っ暗で無音な部屋にこもって、感情が発散されるまでじっとしていること。そうすれば、私は平穏な日常に戻ることができた。  20になった。成人式はなかったが、代わりに幾つかの論文が有名誌に掲載されて、正式に研究員としての職を得ることとなった。パーティーは質素なものだった。初めてアルコールを口にした。美味しくなかった。  それから2,3年して、あるプロジェクトの参加依頼が来た。「ユニバースディスアセンブルプロジェクト」。魔術と科学の大統一理論を構築し、世界の真理を見つけ出すという大層なプロジェクトだった。特に何も考えずに参加に同意した。だが、それが間違いだった。  いや、それがきっかけで、正しい道に戻れたことを考えると、ある意味正解だったのかもしれない。ともかく、このプロジェクトは私の精神の最後の砦を見事に粉砕してしまった。  周りにはあまりにも多種多様な人々がいた。全く噛み合わなかった。だのにそれぞれの技術や知性はずば抜けていた。私の役立てる分野はほんの少ししか無いように思えた。居場所がなくなった。できることがなくなった。なのに考えるべきことは増えて自分の時間は減った。  程なく、私の精神はパンクした。気がついたときには病院だった。突然奇声を上げて暴れまわった後、倒れたたらしい。まる3日目を覚まさなかったそうだ。詳しくは教えてくれなかった。よく考えてみれば、大して眠っていなかったし、まともな食事もしていなかった気がする。しばらくの休養が与えられた。何か必要なものがあるかといわれて、リュートの音楽を頼んだ。再生した途端、涙が出た。  両親は来なかった。  見捨てられたのだと思った。  私は、プロジェクトから抜けたいと伝えた。申請は受理された。  長期入院に同意し、カウンセリングを受けた。自分の記憶や心境を客観的に観察し、分析し、データを解析してプロファイリングし、人生脚本を再検討した。大した効果は見られなかった。  私が望む人生脚本。私にとって一番の無理難題だった。  望みなど何もなかったのだから。  そろそろ、入院から1年が経とうとしていた。これから先どう生きていくかというとんでもない問題を抱えたまま、私は病院の庭を散歩していた。カウンセリングを耐えた報酬としてもらったべっこう飴を口の中で転がしつつ、空を見上げた。本日も晴天なり。いや、雲の量から察するに、「晴天」ではなく「晴れ」だろう。 「こんにちは」  振り返ると、一人の男性が立っていた。服装からして、医療関係者でも患者でもない。 「……こんにちは」  病院関係者以外と会うのは久方振りだ。 「今日もいい天気ですね」  も? 「……昨日は雨だった」  私が間違いを指摘すると、彼は楽しそうに笑った。 「おやおや、では言い直しましょう。今日はいい天気ですね」 「……そうだな」  若干不快感を覚えつつ、私はそっぽを向いた。私の喋り方の何がそんなに面白いのだ。 「……失礼、つまらない言い間違いを指摘されたので、つい張り合ってしまいました」  少し驚いて、思わず視線を戻す。 「あなたを、別の、もっと楽で、自分の時間の取りやすい仕事に勧誘に来たのですが、いかがですか?」  男は少し申し訳なさそうにいった。けれど、笑みは崩していなかった。 「……聞こう」  私はこの男に興味を持った。彼の、自分の心の中身をすっかりさらけ出してしまうその無防備さに、私は興味持った。  今思えば、初日の私はガチガチに緊張していた。 「安心してください、この装置がいかに安全であるかは全ての実験結果から保証されています。それに他の参加者を見たでしょう?」  男は同じ言葉を繰り返すばかりだった。 「そんなことをいってもな、保証はないのだろう?」  私は若干イライラしながら文句を言った。 「……すみません、あなたを安心させたくて頑張っているのですが、どうも口下手で。これ以上の言い方が思い浮かばないんです」  相変わらず正直なやつだった。 「……わかっている。実際体験してみるしかないのだろう?私はさしずめまな板の上の鯉というわけだ。今は甘んじて受けよう。だが何かあったら、ひどいぞ?」  だから、私も率直に脅しを投げておく。  すると、偽りのない笑顔が返って。 「問題が発生したら、私を煮るなり焼くなり、好きにしてください。」  こいつは本当にこの未知のアーティファクトに全幅の信頼をいているらしい。全くもって警戒心の薄いやつだ。  ……まあ、私もこれ以上どうなるというでもないのだ。それこそ、煮るなり焼くなり好きにするがいい。 「それで、もう始めて良いのか?」 「ええ、ソレに触れてください。」  指示に従い、私はソレに右手を触れた。  透明な立方体に入った、ピンクのリボンの付いた黄色い鈴。箱にはSSPと彫り込みがある。  異世界への接続を可能にするアーティファクト。  これが、私の未来を開いた。  最初話を聞いたときは、冗談じゃないと思った。 「つまりお前は私に、その謎のアーティファクトを使って謎の空間に接続し、謎の知的存在と接触してこいと?ふざけているのか?」 「いえ、安全性が保証できるからそれを申し上げているのです。」 「未知のアーティファクトに保証も何もあるものか」  だが、他の経験者と引き合わされたり、その研究棟の他の職員と引き合わされたりしている内に、段々いろんなことがどうでも良くなっていった。 「待て!これはどういうことだ!」 「一番近い哺乳類の耳と尻尾が生えるべっこう飴デース」 「そういうことは先に言え」 「エー、でもとっても似合ってマース!So cute!」 「この!」  いや、どうでも良くなったというか……真面目に取り合う方がバカバカしくなってきたのだ。  そして結局丸め込まれた私は、そのアーティファクトを使った異世界観測を手伝うことになった。  右手を触れた瞬間、全身にさざなみのような感覚が走って、五感に変化が起きた。  部屋の反対側に、人が現れた。  五感が変化しているせいか、姿形はよくわからない。ただ人形であるということと自分に対して敵意はないということだけはわかった。 「あー、聞こえるか?私の名前は久藤琉笑、異世界観測の一環としてそちらにコンタクトを取っている。私はお前を研究対象として扱う。なに、何か特別なことをシロというわけでは…」  ふいに、頭を撫でられた。 「こら、真面目に話をき…」  なでなで。 「おい……」  なでなで。 「……」  なでなで。 「…………」  なでなでなで。  そこから戻ったときの私ときたら、しばらく放心状態だった。 「……少し休まれますか」 「ああ……そう、だな……」  私はそのまま、その部屋で1時間ほど休息を取った。  本当に、強烈にリアルな感覚だった。  いや、リアルというか……その……。  本当に気持ちよかった。  ずっと相手を抱きしめたまま、撫で撫でられで3時間以上過ごしてしまったほどだ。  その日から、徐々に、だが劇的に私は変わった。  らしい。  というのも、私からすると、世界が変わったように感じたからだ。例えるなら、白黒テレビの中に閉じ込められていた所から、現実世界に開放されたかのような気持ちだった。世界が花開いたのだ。 「おはよう」  いつも通り挨拶を投げる。 「……ええ、おはようございます」  ん? 「なんだ、その意外そうな顔は」 「いやぁ、あなたから先に挨拶をしてくださるとは思いませんで……」 「お?そうだったか?」 「もうお忘れですか?モウロクしましたね。昔のあなたなら絶対覚えていましたよ」 「おやおや、酷いいわれようだな。そんな風にしたお前を訴えてやるべきか?」 「か、勘弁してください……」 「はは、もちろん冗談だ」  まさか、私が冗談をいうとはな。 「さて、今日も早速部屋に入らせてもらうとする」 「……そりゃもちろんいいですけど、報告書は書けてるんですか?」 「……今日もいい天気だな」  私は返事を待たずに、部屋に入ってドアを閉めた。  そして、直ぐに例のアーティファクトに手を触れる。  さあ、早く来ておくれユーザ。  私の今の生きる喜びよ